矛盾していること。

加藤和彦氏の遺書には「世の中が音楽を必要としなくなった」云々という現状認識が書かれていたということだ。それを理由に自分の存在意義を問うた結果、悲しい結果になったという。どこからのリーク情報なのかが今ひとつ明らかにされていないが、仮にそれが事実だとすると、氏の現状認識は至極真っ当なものである。本当に世の中は音楽を必要としなくなってきている。それなのになぜ音楽「業界」などという、霞を食って生きているような商売がまだ生き延びているのだろうか。身につまされる思いだ。
しかし、音楽が必要とされた時代など本当にあっただろうか。音楽が伝達情報として機能していたプリミティブな時代を除き、さらにはワークソングや祭り、子守唄など生活に密着したいわゆる(こう言って良ければ)「機能音楽」も除外し、音楽の送り手と聴き手という二分化によって、音楽の必要性は決定的に変化した(と私は思う)。その二分化以降に、音楽は「必要だ」という幻想を与えられた。一番分りやすい卑近な例は「落ち込んでいる時にダレソレの歌を聴いて救われた」などといった言明だ。
私はそんなの大嘘だと思う。いや、たしかに「救われた」のは事実かもしれない。しかしそれは本当に音楽の力なのか? と疑いたいだけなのである。あなた自身が、音楽をきっかけとして自らが立ち直ったのではないのか? と。そのきっかけは音楽じゃなければダメだったのか?と。誰かの小説じゃダメだったのか?と。絵とか美味い飯とかじゃダメだったのか?と。
つまり私が言いたいのは、立ち直るためには別に音楽は必要はなくて、何のきっかけでもとどのつまりは自らが自らを論理的に言い訳をして立ち直ればそれで済むではないか。そのための音楽など、人を甘やかすばかりである。ますますモンスターペアレントみたいな人種を増加させるだけなのである。ということを言いたい。
もはや二分化された音楽が「必要」だとは私は思わない。むしろ逆にそんなのなくなってしまえばいいとすら思う。しかし私が音楽を送り続けて商売をしているというこの矛盾....。
加藤和彦氏の苦悩がわがことのように胸を痛めつける。氏がもうちょっとだけ厭世家であったなら、悲しい結果にはならなかっただろうと妄想するのである。ご冥福をお祈りするばかりである。
(「音楽の二分化」は岡田暁生『音楽の聴き方』を参考にしました。でもたしか岡田氏は演奏と聴取と批評という三分化として捉えておられたはずです。記憶で申し訳ない。)