音楽雑誌。

某友人が新たに音楽雑誌を立ち上げるという。それでちょっと相談に乗ってくれというので飯田橋で待ち合わせ、打ち合わせのようなものを。
音楽雑誌の役割。それは70年代の私にとっては非常に重要なものだった。というか音楽雑誌とライナーノーツくらいしか情報源がなかったのだった。当時私が中学生〜高校生だった頃、音楽にワクワク感満載だった頃、音楽雑誌の発売日がとても楽しみだった。当時私が熱心に読んでいたのは「ミュージックライフ」「音楽専科」「FMレコパル」そしてたまに「ニューミュージックマガジン」。ちょっと後になって「ロッキンオン」。とにかくディープ・パープルからリッチーが脱退しただのイエスツェッペリンが人気投票で1位2位を争うだのザッパとアリク・クーパーはどっちが変態かだのキースがクスリでヤバいだのマハヴィシュヌオーケストラはクリムゾンを超えているかだの、まぁとにかくそういった有象無象の情報が満載でロックミュージックは危ない/反社会的なものを内包しているという幻想を存分に吸い込んでいたのだった。そしてそれはマスにすら機能していた。パーカーやミンガスはすでに伝説化されジミヘンやブライアン・ジョーンズ、ジム.モリソンも伝説と化していた。そしてそれをナイーブに享受していた幸せな時代だったのだ。
そこから30年以上が経過した。もはや幻想は壊滅した。情報享受のリテラシーが叫ばれ、過剰な情報と過剰な商品があふれ、メーカーが作り出す幻想はもはや広告という名の下に淘汰され、小さなサークルで音楽は完結され、マスではなく個々人の幻想のうちに音楽は誇大妄想的に「巨大に」なった。
そんな中であえていま音楽雑誌を立ち上げようとする、その気迫が素晴らしい。ただしあまりにも巨大化した(虚大化という漢字を当てはめたいくらいだ)資本主義的メンタリティーに慣れ親しんだ人々(私も含む)にどのように訴求されるべきか。ここが一番厄介なところだ。音楽、美術、言語、etc、本来資本主義と相容れないはずの人間の行為がやっぱり資本主義的に回収されてゆくさまはたぶん全員うすうす感じているはずなのだが、それを言っちゃあ身も蓋もないよ、という言い方で自分を納得させているはずなのだ。全員。オレも含めて。
そのことを、現実に即して友人に言った。言論は自由なはずであると。言葉は自分のものから発して普遍を目指すはずであると。たとえそれが不可能だという大前提があったとしても、では言語は何のためにあるのかを自分で考え抜くべきであるとオレは思う。結論はどうだっていいのだ。その「考え抜く」という課程が重要だ。
文字にすることと喋ることは別物なので、そんな考えをオレは彼に100%伝えることができたかどうかわからない。でも、対話の中で見えてきたことはお互いに多少なりともあるはずで、それが重要なのだとオレは思っている。
と、書いてきて、これを読まれる方にとってはなんのことやらさっぱり分からないですよね。すいません。オレもなかなか文章にするのが下手だと思います。でもまぁなかなか充実した対話であったなと。オレも得るものが沢山あったなと。そう思ったわけです。それを言いたかったわけです。「考え抜く」こととは、少なくともオレの場合モノローグでは発展し得ないなと。ディアローグでなきゃダメなんだなと。改めてそう思った次第です。その結論を書くためにこんなに字数を費やしてしまいました、もっともっと書けます。
新たな音楽雑誌、是非頑張ってほしいと思う。ふぬけた業界に楔を打ち込む気迫で望んでほしいと思うことしきり。であります。