大友3デイズ@新宿ピットイン 総括。その2。

(昨日からの続き)
例えば音楽メディアは私がモノゴゴロついた時から相当な変遷をたどった。ガキの頃はEPを一枚ずつ買い、中学〜高校〜大学の時にLP&カセットテープ、80年代中頃からLPやカセットはCDに取って替わられ、今現在はデータとしてパソコンやHDに保存(これに関しては私は仕事上以外のデータは入れていない)。そういった変遷に我々の耳(もしくは体)は慣らされてゆく。それが良いことなのか悪いことなのかは棚上げにするとしても、とにかくそういった環境に体は慣れてゆく。いまはもはやLPやカセットで聴くのがすごく面倒だと感じるようになったり、等倍速でコピーするのが時間の無駄だと感じるようになっている。しかし果たしてそれは面倒臭いことであったり無駄な時間であったりするのだろうか。もちろん答えは「否」だ。何が面倒くさくて何を時間の無駄とするのかは個人の判断に委ねられるべきであり、それを無駄だと感じざるを得ないように「我々の知らない部分」からコントロールされていると思えるのだ。「我々の知らない部分」は我々の体の感覚ですら巧妙にコントロールする。
大友はそのコントロールされた体(特に彼の場合は職業柄「耳」に重点を置くが、ここのところそれをどんどん拡張しているのは明らか)に、いかに向き合うかを新たに問いただす。PHEWが新作をカセットでリリースするといいう情報を誰よりも早くオレに知らせてくれたのは大友だった。そのPHEWのリリース方法に少なからずショックを受けたレーベル社長(大笑)のオレとしては、先越された〜、という思いと、そういう小さなことがこの我々の「コントロールされた体」から脱する突破口的なものになるのではないかという思いが今強く頭の中にある(この辺、電話で長々と話した大友との対話がとてもヒントになっている)。そしてこれが彼の言う「休符」の本来的・根本的な意味合いだろうと思う。
居心地の悪い制約/制度や、楽しくない状態をなんとかするためには「我々の知らない部分」に変えてもらうんじゃなくて、われわれのほんの小さな力でちょっとずつズラして行く方が断然楽しいし、少なくとも私は、たとえそれがアウトローな方法であったとしても誰かに迷惑さえかからなければ全然それはOKだと思っているヤクザなおっさんなので、大友の言いたいこと/やりたいことがすごく理解できるのだ。オレは彼からとても刺激をもらっているが、オレが彼に与えられる刺激って何だろう。自分に問われるのは常にその部分だ。
ピットインでの三日間は昨年の山口YCAMでの「ENSEMBLES」の09年版のオープニングである、というようなことをMCで語っていた大友だが、そのシリーズに大きな可能性を感じさせる三日間であった。何が起こるか分らない、そして何も起こらないかも知れないこれからの「ENSEMBLES」のコンセプトは大いに期待が持てる。音(耳)のみならず、コントロールされているであろう体をちょっとズラしてみるのは大友本人ではなく、参加者(観客を含む)全員の試みであるとも言えるだろう。そしてそれが、とりもなおさず大友良英批評の第一歩になることと思う。



追記。大友良英評論家の皆さんへ。私はあなた方大友良英評論家にプレッシャーを与えるためにこの文章を書いているのです。