大友3デイズ@新宿ピットイン 総括。

入場時の折り込みではなく、休憩時間に大友本人の手で観客一人一人に配布された「休符だらけの音楽装置宣言」と題されたモノクロのコピー用紙。音楽を云々言う前に、この行為・行動自体がこの三日間のすべてを物語っているようにオレには思えた。
音楽をとりまく全ての事柄―作曲家、アレンジャー、演奏家、演奏場所、楽器、イクイップメント、PA装置、エンジニア、立案企画、広告宣伝、観客、録音再生機材、視聴機材、批評、販売メディアと流通、ショップ、メディアの購買者、などなど、つまり音が始まる地点からそれを享受する地点までの全てを「音楽装置」とし、その装置の資本側から(というとちょっと大げさな問題になるので、我々の知られざる部分から、くらいにしといた方がいいかも)の変化にわれわれが慣らされることに根本的に疑問符を投げかけてみよう、というのが昨年の「EMSEMBLES」からの彼の実践である。
配られたコピー用紙にいみじくも印刷されているように「現実社会と折り合いを付けねばならない大人の知恵としての休符」と「息を止めてかくれんぼするような子供の感覚としての休符」の狭間に、つねに・すでに我々は生きている。どこまで妥協できるのか・できないのか。ライブハウス ―客席がありステージがありという空間的なことと、10分押しくらいで2セット演奏して終了はまぁ10時半くらいまでで、という時間的なこと ―という制約の中で演奏するということは、自然その制度に取り込まれるということを意味する。「取り込まれる」なんて書くとまたおおげさに聞こえるけど、実際我々はライブハウスのみならず様々な状況において様々な制度に取り込まれて生活している。
その取り込まれた中でそれがなんとなく居心地が悪いと思った時に、じゃあ自分は何が出来るのかな、というのが「ENSEMBLES」の根底に流れる大友本人の皮膚感覚の疑問符だろうとオレはにらんでいる。けっして大仰なことではないのだ。日々生活する中にふと沸き上がってくる原初的な疑問。子供のような疑問。これがまずスタートだ。大人語で言うとこれを「ラディカルな問題提起」などという。
三日間ともに、ライブハウスのそういった制約から少しずつズレたパフォーマンスで、時折トイレの前のアンプから音が鳴ったり、どこで鳴っているか分らないような音が聴こえたり、演奏者が途中で外に出たり、ステージングの位置を変えたり、といった大友の意図的な「ズラし」によって音や関係性が劇的に変化する。つまり劇的に変化するほどに我々が住むこの「音楽装置」は脆弱なものであり、ほんの少しのことで感覚が揺らいでしまうほどに制度化されていることに気付かされるのだ。(書くのがかったるくなってきたので続く。)