明るい予感。

金・土・日は謎の腹痛と下痢だった。風邪か? とも思ったけど、日曜日の夕刻には下痢も治まったようなので一安心だが、なんせ腰は痛いし膝も痛いしおまけに腹痛と下痢が重なると、辛いというよりなんか情けなくなってくる。中年なのでさまざまな部署に気を遣わなきゃいけません。


おなかが痛いにも関わらずyouTubeの動画を保存するソフトを教えてもらい落としまくる。音楽系、お笑い系、動物系(主に猫動画)、ドキュメンタリー系の4つのフォルダに分け、落としまくったのだが、けっこうな容量を食ってしまい、外付けHD買わなきゃ、とか思ったのだが、ふと、そんなことをして何になるのかと思い直す。後でもう一度観るのかと。そんなにたくさん持ってて、どうするのかと。そんなことを考えていると何か虚しくなったというか、オレが死ぬ時この動画の保存はオレの死にとって果たして有意義なのかと。そんなこと考えたら何も出来なくなることは十分承知していつつも、新しいテクノロジーに関してはついつい一歩引いて身構えるのが私の特徴である。


情報過多の時代といわれる昨今だが、なにかそのように、全てを所有せよ、全てを蓄積せよと方向付けられている気がする。iPodに一万曲入るとか。
そんなに聴くのかと。仮に一曲3分として30,000分=500時間。仮に一日8時間聴き続けたとして62.5日。約二ヶ月。そして聴き続けたその一曲一曲が、あなたにとってどうなのかと。所有する、蓄積することは決して悪いことじゃない。でもその所有・蓄積の仕方が問題なのだ。モノの所有・蓄積ではなく、コトの所有.蓄積であってほしいと思うのだ。非常に曖昧な言い方ではあるけれども。


それでも世の中はなかなかしぶとくしたたかなので、コトの所有・蓄積にすら消費を促されるのが現状である。ちょっと前に「お金で買えない価値がある」というカード会社の広告があった。あれなどのコピーは実に上手いと思うわけであります。モノではなくコトなんだよ、そこにお金を落としてくださいな、というわけだ。しかし私がそこに一言加えますと「お金で買えない価値がある。しかしそのためにはお金が必須です」ということになる。最終的にやはり下部構造なわけだ。


何が言いたいのかというと、私の所有・蓄積の願望量は、世の中が提供する商品・情報・その他の圧倒的な量に(いまのところ)絶対に追いつくことはなく、しかし追いつこうとしている、もっと所有・蓄積しようとしている私の願望は本当に私自身の願望であるのか、ということだ。つまりオレ自身の「諦め」の妥協線をどこに引くのか。


こんなことまでオレに考えさせる世の中は、やっぱりちょっと間違っておるよな。「世の中が悪い」。しかしここのところの金融破綻のニュース等を見ていると、なんとなくオレの願望と世の中の提供物の差が何年後かには極端に縮まっているような気もする。ヴァーチャルな金の動きというシステムがことごとく崩壊するような予感がしている。なんとなく。