耳悪くなるぞ。

(1) よく自転車に乗りながら iPod などを聞いている若者を見かけるが、人ごとながらあれは怖い。外の音が遮断されているので、車が来ても気づかないからだ。これは危険だ。なんとなく思ってることだけど、ヒトというのは五感だけじゃなく、第六感、ていうんですかね、「気」みたいなものを常に感じ取っているのではないかと思う。それは空気の「気」でもあるし、気配の「気」でもある。これは視覚によるものではなくて、聴覚、触覚、嗅覚によるところが大なのではないかとなんとなく思っている。で、チャリで iPodは、特に聴覚を遮断されているので、車の音も聞こえなければ気配感受量も減る。音楽を聴く時は出来る限り外の空気音や気配音も一緒に聴いた方が、身のためでもある。


(2) DVDとかYouTubeとかで、昔は見れなかった貴重な映像を簡単に見れるようになった。昔レコードを聴いている時は音そのものとジャケの写真とか音楽雑誌の写真やレビューだけが頼りで、そこから類推してライブの様子などを妄想していた。ところがいまはYouTubeで検索すると、まあよほどマイナーなミュージシャンじゃない限りは映像と音が提供されてくる。
映像の力というのはとても大きなもので、というか視覚が脳みそに与える印象というのは強烈で、音楽ビデオなんかを観る場合、聴覚というのはあくまでサブ的な役割しか果たしていないような気すらする。
今月、今井和雄トリオのCD+DVDを出すのだが、公開録音をした音を先に全部聴いて、その後でライブ映像を観たのだが、音を聴いている段階で、ギターの音がちょっとおかしいぞ、と思う曲が数曲あって、それは後日録音し直すことになったのだが、映像をチェックしているとき、同じ音が鳴っているにも関わらず、映像を見ながら音を聴いていると、なんら違和感を感じないのだ。これは我ながら驚いた。「聴覚はあくまでサブ」理論は、そこから考えたのだが、おおむね外れていないのではないかと思っている。日常会話で「ライブに行く」というのはありがちな会話だけど、他の言い方として「ライブ聴きに行く」というよりは「ライブ観に行く」という方が多いような気がする。ライブはやはり「観る」もので、聴くのはサブだ。実際CDよりも映像やライブの方が楽しいのは、聴覚だけじゃなくて他の器官も駆使できて楽しみをより多く感受できるからだ。
それはそれで全く問題はないのだけれど、音楽に関しては「聴覚だけを集中させる」ことが極端に少なくなっている。私の場合は仕事が仕事なだけに「聴覚だけを集中させる」ことは常にあるのだが、メディアがこれだけ多様になってくるとパソコンで何かやりながら音楽を聴くとかTVの画面だけ観ながら音楽を聴くとか(これは昔私はよくやっておりました)各々の感覚器官(や脳みそ)を別々に機能させなきゃとてもじゃないけど時間がなくなってしまう。
一日30分だけでもいいから、目をつぶって聴覚だけに集中して音楽を聴いてみよう。きっと違う音楽体験が出来るはずだから。


(3) CDの制作者側(ミュージシャン、エンジニア、デザイナー、レーベルなどなど)は一枚のCDを作るのに、聴覚を駆使して、録音方法が云々ミックスが云々マスタリングが云々、もしくは曲順はどうで曲間がどうでジャケットはどうでライナーはどうするだの、どういう風にすればこの音楽を最善で響かすことが出来るのかを真剣に考えている。そしてそれを鳴らす側、オーディオ方面も、このスピーカーの5KHz辺りが引っ込むのはどのような理由によるものかとか、日々努力を重ねている(と思う。詳しくないのでこれは予測)。
それをパソコンの、たかだか3cmくらいのスピーカで聴かれて、ネットでこのCDはつまらんとか書き込まれた日にゃあ、制作者側がぶちキレる日もそう遠くはなかろうということだ。まあ制作者側がぶちキレたとしても、世の中には全く、これっぽっちも、何ら、影響はないですけどね。つまり世の中全体が聴覚に対してあまり興味を示さなくなってるんだ、きっと。
ネット配信。お手軽にお好きな音楽をダウンロードしてパソコンの3cmのスピーカで聴いて知ったようなことを言うんじゃねーよ。
何の話だっけ。ああ、聴覚だ。もう、音楽の隅の隅まで聴くという偏執狂的な聴き方は時代遅れなのですかね。もうしそうだとしたらオレが死ぬ時は世の中を呪いに呪いまくって死んでやる。世の中を憎悪して死んでやる。
また話が逸れてる。制作者側が聴覚を駆使して制作してるんだから、聴取者側も聴覚を駆使して聴けよ、ということを言いたかった。それが批評の第一歩でもあるでしょ、と。それを言いたいがために世の恨みつらみばかりを書いてしまった。幸いオレの廻りは、オレの意見に似たり寄ったりの人々も多い(というかそういう人間ばっかりだ)のだが、オレの廻りが異常なのだろうか。わからなくなってきた。