無駄削減 part.2

一昨日からの続きです。で、昨日書いてあったのですが、確認してアップするのを忘れておりました。
で、音楽配信なんだけど、結局われわれが音楽に何を求めているのかと問うてみるに、それは音楽を聴くことによる「感情の動き」を求めている。そしてその感情の動きによる知的満足、というか何らかの「知」が満たされたと思う時、その感情の動きは更に増大する。これは「知」と「感情」の入れ替えも可能だと思うし、どこまでが感情でどこまでが知かという根本問題はとりあえず棚上げにしておく。
パッケージソフト、つまりレコードとかCDっていうのは音楽の他にジャケであるとか、解説(ライナー)であるとか、そういった無駄なものがたくさんくっついてくる。レコードのラベルとかCD盤面のデザインとかが凝っているものもある。なぜならそれは商品(プロダクト)だからだ。売るために作られているからだ。そして享受側のわれわれが、音楽のみならずその付随物(無駄なもの)によって新たな感覚を得ることははたして無いと言えるだろうか。私は無いとは言えない、という立場なのだ。近年(といってももう10年も経過するのだなぁ...)最も私が感激した音楽、Henry Threadgill の Too Much Sugar...のジャケが大竹伸朗のものじゃなければ、何か別の感激の仕方だったと思うのだ。どちらが豊かな感激の仕方かと問われれば、私には分かりかねる。一応パッケージソフトを擁護しなければならない立場なので、無駄なものは付随していない方が豊かな感情の動きを得られる、とは、いまここで言うつもりはないだけのことなのだ。でもこれは本当に判断がつきかねることだ。
音楽配信は純粋に「音」のみをサービスするものであって、無駄なものは一切省かれている。でも音楽配信だけで満足できるならライブやイベントも厳しいんじゃないか? という予測も立つが、ライブやイベントはまさにその「イベント性」がひとつのウリになっているので、これは厳しくはならないだろうと予測される。それを前提にまた大友良英の予測だが、パッケージソフトはライブ会場、イベント会場での販売が中心になってゆくだろう、と。しかしそうなると個人で頑張っているCD屋さんはことごとく潰れて行くしかない。私は大友くんの予測は非常に冷静な分析による現場からのものだと思うが、その予測が当たらないことを期待する。ライブ会場でも売れてほしいしちいさなCD屋でも売れてほしいと願うばかりである。
CDを作る時一番楽しい作業がジャケットを作る時で、それは音楽に付随していたり付随していなかったり様々なんだけど、それが音楽を直接的に反映しているにせよしていないにせよ、全く別のメディア(音と絵、もしくは音と文章)が一緒になったパッケージソフトというのは私にとってはやっぱり楽しい。たとえ「誤解」だったとしてもその複合的なメディアを自分の感覚の中で統一して解釈することが私は好きであると、ただそれだけのことのためにパッケージソフトを擁護しているのかも知れないし、それは私の知的満足のための独りよがりなのかも知れない。イエスロジャー・ディーンのジャケじゃなければ、ピンク・フロイドヒプノシスのジャケじゃなければ、セシルのアキサキラが金属を手術するようなあのジャケじゃなければ、ブルーノートがフランシス・ウルフの写真じゃなければ、私の感覚は全く違ったものになっていただろう。そしてその音楽に対するコトバは全く別のものになっていただろう。過剰な無駄を消費することによって、純粋な音だけでは得られない、縛られた感覚を育んできたのだ。そしてその「縛られた」ということが実はおおきく商売にも作用してきた。無駄を生産し、無駄を消費し、縛られた感覚を培った。その縛られた感覚は音楽配信を享受することによって淘汰されてゆくのだろうか。
つれづれなるままに書きなぐってきたので、全くまとまりがなくなった。混乱しており何を言いたいんだかよくわかりません。だけどいくつかの問題点が立ち上がってきたような気もする。また日を改めて書いてみることにしたいし、音楽配信に関して、色々な方と話もしてみたいと思う。反論は甘んじて、というか喜んで受けるつもりでおります。私ももっと考えて顔を洗って出直します。