蚊取り線香の匂い。

配偶者が蚊取り線香を買ってきた。オレがガキの頃からある、火をつけて燃すタイプのヤツ。この匂いを嗅ぐのは何十年ぶりか。これまでは電気によってマットを熱するタイプのものとか、やはり電気によって液体を蒸発させるタイプのものとかを使ってきたので、ホントに何十年かぶりに嗅ぐ蚊取り線香の匂い。
匂いの記憶はけっこう強烈で、蚊取り線香の匂いを嗅ぐとばーちゃんち(母方の)の夏の縁側を思い出す。縁側。オレがガキの頃、その縁側がとても好きだったのだ。縁側といっても茶の間から便所に行く広い廊下で、その前には何も使っていない、庭とも言えないような、苔の生えた薄緑の明るく小さな狭い空間。その右側は風呂場へ続く廊下、その左側は道路。道路といっても舗装もされてなくて、車は全く走らず、一日に通行人がせいぜい3〜4人くらい。1965年=昭和40年頃のことだ。その、土の狭い空間でオレは遊んでた。何をして遊んでたか記憶が定かではないが、とにかく遊んでた。そして夕方になると開け放した扉から蚊が入ってくるので蚊取り線香を縁側で焚いていたのだった。そしてそのままオレは眠りに就く。ガキなので寝るのが早いのだ。その匂いの記憶だ。
春夏秋冬、匂いがある。その土地その土地の匂いがある。いい思い出の匂いとイヤな思い出の匂いがある。この匂いの記憶は、その人個人や、その親類縁者、さらには民族までも支配しているのではないかと思えるほどである。(決して「国」ではない。)
匂いは音より、言語化するのが難しい。微妙な匂いの違いを人に説明しようとするとき、困り果ててしまう。例えば「蚊取り線香の匂い」はある程度共有できるものがあるけど「夏の匂い」って、じゃあどんな匂いなの?と訊かれると困ってしまう。だけど確かに夏の匂いはある。それは蚊取り線香の匂いだったり潮風の匂いだったり雨上がりのアスファルトの匂いだったりという具体的な明示を超えて、なにか、民族の記憶みたいなものがあるような気がするのである。(一歩間違えると大変危険な思考回路に陥ったりするので、その辺りは注意したいところです。)
世の中の全てのことがらが言語化できると思うのは大間違いで、たしかに断じて言語化しなければならないことがあるけど、言語化しないでそのまま留めておいて欲しいこともある。匂いはその最右翼だ。
蚊取り線香の匂いを嗅いだだけで、そんなことをまたうじうじと考え込んでしまった。でも好きなんです、蚊取り線香の匂い。