リテラシーということ。

色々とあって、吉祥寺GOKサウンドに出かける。某レーベルの某社長が某作品のためのマスタリング最中。この某作品は'91年に一度だけCDとして世に出され、その後ずっと廃盤になっていたもの。そのマスタリングにちょっとだけお邪魔する。
で、私の目的はこないだやったGround-Zeroのマスタリングの完成音源で二箇所、納得のいかない部分があったので再度GOKの近藤さんに手を加えていただくことに。大友良英とともに。もうひとつの目的は支払い(笑)とベーアンのトランポに関して打ち合わせ。
Ground-Zeroに関しては、録音状態が決して良いものとは言えないので、けっこう音の欠落があったり、どれが演奏でどれが予期せぬノイズなのかが、よく聴かないとわからない(苦笑)楽しい音源だ。15年前の、まだ瑞々しく、若々しく、荒削りで過激な演奏である。一通り全てが終了して、帰り新宿のタワレコにでも寄っていこかな、と思ってたのだが、大友と近藤さんと3人でついつい中年の健康の話題に。この話がまた楽しくて長引くわけですよ。気付いたら11時半だった。ひとまずGround-Zeroの音源の方は順調。あとはジャケだ。佐々木暁くん引っ越し中。ちょっとだけ不安。
さて私の日記にリュウジ氏からコメントがあったわけだが、それについてまたまた考えてしまった。メディア・リテラシーというコトバをここのところ頻繁に見かけるが、私もとても興味があって実はそれ関連の本を読んでいたのだった。私はズブズブの文系なので、数値とか、科学的某とか、論理的某ってのが、いわば権威的な圧力となって私を思考停止に陥らせていたのだが、そういう(私のような)人々を上手にコントロールして世の中は動いてきたのだ。その最も犯罪的でイデオロギッシュなのは戦争だろう。その時に日本国民のほとんどがリテラシーを持ち得なかったのが不思議でしょうがないが、それが政治というしかないのだろうな。そしてそれを推進した当時のマスメディア。今でこそTVのヤラセだなんだと騒いでいるけど、極端に言えばTVの報道なんか全てがヤラセと言っても過言ではない。だってオイシイ映像を意図的にセレクトして、それに見合うBGMをかませて煽情するわけだからね。つまるところどれだけ視聴率(←それも捏造。ほんの一部のモニタの%でしかない)を稼いで広告を取るかって話だからね。「数値」や「科学」や「論理」が説得力を持つ(ような装いをする)のは何故かってことを考えることがリテラシーだと、現時点で、オレは思う。ひとつの言明に対していくつもの結論がある場合、じゃあオレはどの結論を採用するのか、という態度。これはひとつの言明に対する誰それの解釈を受け入れるのではなく、別の考え方もあるぞ、と自分で考えること。メディア・リテラシー教育ってのもあるらしいけど、そんなの人に教わるもんじゃないし教えられるもんでもないと思う。こういうサービスがあるってのも実に矛盾に満ち満ちている。「メディアの情報をよく考えなさいよ」とメディア(教師、テクスト、授業)が言う矛盾。メディア・リテラシーに関しては書きたいことは山ほどある。けど、上記のようにとりとめがなくなってしまう。折りをみて(何かポイントを絞れたら)また書きます。参考文献(最近読んだ本)『科学はどこまでいくのか』(池田清彦ちくま文庫)、『科学とオカルト』(池田清彦講談社学術文庫)、素晴らしき愚民社会(小野谷敦/新潮文庫)、『メディア社会』(佐藤卓己岩波新書)、『議論のウソ』(小笠原喜康/講談社現代新書)、その他多数。