考えていたら気持ち悪くなった。

音楽のデータ配信とパッケージソフトに関して色々と考えていたら気持ち悪くなってきたので考えるのやめました。しかしいずれまた考えざるを得ないだろう。音楽はただ「聴くこと」ありき、なのか。音楽を「聴くこと」とは、ではいったいどういうことであるのか。データ配信とパッケージソフトの決定的な差は、この二つの根本的な問いに答えることなのであろうと思う。そしてその答えから導き出されるのが「したがってパッケージソフトは死滅せざるを得ないのである」ということになったとき、じゃあオレが今まで生きてきた人生とは死滅するモノに関わり続けていた人生なのであった、という結論になる。ちょっと悲しい。
そういう風に考えてみると、世の中は様々な職人技を切り捨ててきた。大量生産によって和菓子の職人が、とか、DTPによって町の写植屋さんが、とか、スーパーマーケットによって八百屋とか豆腐屋とか魚屋とかといった個人店舗が、とか。結局経済というのはメジャーな風向きに流れることになっている。そしてそうこうしているうちにそのツケがこの約10年の間に頻発している。会社の重役がTVの前で謝罪する姿にはもはや慣れっこになってしまった、というのが一般的な風潮なのではないだろうか。
音楽制作に関してももちろん、プロトゥールスに代表される、パソコン一台と周辺機器さえあれば録音からマスタリングまで全てのことをパソコン内で処理できてしまう便利なソフトが主流になってきた。しかしこと音に関しては私はもちろん、プロトゥールスを全て使いこなせるエンジニアよりは、自分の耳を頼りに処理するエンジニアを信頼している。私とエンジニア、もしくはミュージシャンとの関係は、自分のいいと思う音を、実際の音を聴きながら確認しあったり、時には対立しあいながら、やり取りすることだ。実際の音を聴くことは数値ではなく、感覚、というか、どちらかというと霊感に近いようなもんだ。この感覚をプロ・トゥールスは持ち合わせては居ないのだ。ツールはあくまでツールなのであって、マインド(ブレイン?)ではない。
感覚というのがマインドなのかブレインなのかも分からず、一切のことが解明されてもいないのにツールだけが先走って行く代表のひとつが音楽配信なのかな、と。
と、ここまで考えて、いや待てよ、とかまた考え込んでしまって気持ち悪くなっていたここ数日間のことであった。まぁそんなことを忘れてROVOのライブに行ったり、ビラ発送したり、パソコン修理に出したり、校正したり、と相変わらずバタバタと動き回ってはいたのだが...。