全人類殺戮。

7/7(金)  印刷の打ち合わせと納品で渋谷へ。渋谷は人でうじゃうじゃで歩きにくいったらありゃしない。オレは歩行の速度が比較的速いので渋谷はもうイライラするんですよ。自分のスピードで歩けない。なんでオマエらタラタラタラタラ歩いてんだよ。とっとと歩けよ、と叫びたくなる。ばあちゃんとかじいちゃんならオレは許すけどオマエらみんな若者じゃねーか、と。後ろから尻に蹴りを入れたくなること数度。渋谷は精神衛生上良くない。家でやらなきゃならない細々した仕事がたまってて、「アルゼンチン音響派」+ROVO鶯谷東京キネマ倶楽部には行けなかった。ちょっと悔しい思い。
7/8(土)  U井とIブーと根津の車屋へ呑みに行く。仕事の話半分。残りはグダグダの世間話。ちょっと呑みすぎた。
7/9(日)  TVで『日本沈没』リメイク版映画の宣伝が喧しい。その関連で「明後日世界が沈没して全人類が破滅します。あなたは残された二日間何をする?」という質問にタレントたちが答える、という番組をやっていた。オレならどうするかと考えてみた。あがいてもしょーがないので、オレなら普通に日常を過ごすだろうと思う。ただ、世間が大騒ぎしているので通常の日常を過ごせるかどうかが問題ではあるが。タワレコに電話して「次に出す高柳のCDのオーダーは何枚くらいですか?」と訊いても、それどころではないんだろうな、と。つまり普通に日常を過ごすことというのは少なくとも数ヶ月先に自分が存在しておりその周りの社会的連関も存在しており何の間違いもなく世界は進行しているという揺るぎない大前提があるのだなあと、思う。当たり前のことなのだが、それを当たり前のこととして大前提にしてしまうのはどうか。人間はなかなか死ぬものではないけれども、逆にいとも簡単に死ぬものだ。その大前提を疑いなきものとして生きるのが幸せなのだろうか。それともそれを疑うことによって知識や洞察、みたいなものを得るのが幸せなのだろうか。オレには分からない。ただオレ自身は後者にワナに深くハマリ込んでしまっているので、前者が幸せであるとは思えないというだけの話だ。
世界には全人類を何度も殺戮できるだけの核兵器が存在しているらしい。戦争の悲惨さは生き延びる者がいるからだ。いっそ全人類が一斉に死に絶えれば悲しみもクソもない。それはもはや戦争ではない。全人類一斉殺戮のスイッチを押す狂人が登場すればそれが一番、全てのヒトにとって、平等に幸せと言える。絶対に外せない唯一の条件は、本当に一人も生き残らないことだ。