二日分。

ずっと新宿ピットインにおりました(笑)。私は3日間ともとても楽しめたし、ONJOの溶解の瞬間瞬間を目の当たりにして、その都度感激しながら音を聴いていたのだった。でも正直に告白させてもらうと、ここで様々な感想めいたことを書くことは、なんだか潔くないようにも思うのだ。なぜなら私はONJOのCDを出しているレーベルの者であるし、褒め称えてばかりいるのは、当然商業的な目算や宣伝意識であると勘ぐられたくないのである。もちろん私はONJOの音楽が好きだからCDを出しているのであって、CDを出すからには一生懸命売ろうとするのは当たり前であるにしても、そういうのを「いかにも広告です」といった形ではなく、こういったブログで潜在的に宣伝広告する(ように見える)行為が、なんだか後ろめたいのだ。
正直な感想というのはたとえばJOJO広重さんの9/25日の日記のこういった → http://www.kt.rim.or.jp/~jojo_h/ar/p_diary/diary.html ものである。もちろん広重さんの感想と私の感想は全く違うものである。楽しめなかったという広重さん、楽しめたという私。どこに差異があるのだろうか。広重さんは音楽観の差異であるというが、それほど単純なこととも思えない。つくづく考えてしまった。広重さんの日記は毎日読ませていただいているが、とても共感できることがあるし、なんと言っても身につまされることが多いので読まずにはいられないのだ。
人は誰でも光と闇、善と悪、浄と汚、などなど正反対のものを同時に抱えつつ生きている。その危うげなバランスをとりつつ、かろうじて生き延びている。ギリギリの線以上には行かないように(法を犯すことがないように)かろうじて生きている。犯罪者は断罪されるが、いつ自分が犯罪者になるか分からないような状態で生きている(少なくとも私個人に関してはそう思う)。
そういう個人個人が社会性を持つとき、ひとつの事柄に関して意見が違うのは当然だ。様々な意見や感想があっていい。むしろそうある方が健全だ。そういった意味において広重さんの意見は実に貴重なものとして私は受け取った。そう考えると音楽観の違いというもの当然あるだろうし、楽しめた人も楽しめなかった人もいていい。もっとも今日昨日のONJOが例えば(絶対にあり得ないけど)サザンオールスターズのコンサートの前座に出たら非難轟々だろうし、それは非常階段だって同じことだろう。結局何らかの「場所」と「チーム」を作っているのはオーディエンスの方で、今日の新ピの観客の中で広重さんのような感想を持つ人は多分一握りより少ないと思う。でも、こと音楽とか、そういったロジックにできないようなことは、そういう意見が実に重要だ。
めっちゃ楽しく打ち上げを終え、脳天気になって帰ってきて、いつものように広重さんの日記を見てハッとさせられたのだった。常に冷静な人間になりたいものだ。