オヤジのこと。

墓参り。墓は比較的実家から近いところにあるので、天気のいい日だと歩いても行ける距離だ。オヤジが死んで17年かー。早いなー、時の経つのは。
うちのオヤジは膵臓癌で死んだ。膵臓ってのは比較的腰の後ろ辺りにある臓器で、オヤジは最初腰が痛いと言っていたらしい。それで外科に行ったらしいのだが特に悪いところはない、と。それである日突然食ったものを全く受け付けなくなる、という症状になり内科に行ったところ、癌が発覚する。発覚したときはかなり進行していたらしく、オフクロが医者に「あと一ヶ月くらいだ。」と言われたとのことだ。58歳で死んだのだが、若いと癌細胞も元気らしい。癌の宣告をされてから、本当に一ヶ月で死んだ。膵臓癌はめちゃくちゃ痛いらしい。オヤジはその激痛でベッドの上で暴れまくった。その悲痛な暴れ具合を見ていて「こんなに苦しむくらいなら楽に死なせてやった方がましだ」と思った。わが国では安楽死は法で認められていない。医療は延命治療を施し、痛みを軽減するためモルヒネを打ち、最期は全く意識が朦朧としたままオヤジは死んだ。(らしい。オレは死に目には会えなかった。)
当時オレはディスクユニオン淵野辺店に勤務しており、オヤジが死んだという連絡が店に入った時、店を早退して実家に帰る旨本部に電話連絡をした。その時に電話に出た相手が言った。「そういう連絡はFAXでしてくれないかなー?」
当時、ユニオンは頻繁な電話連絡が業務の進行を妨げるので、なるべくFAXで連絡や報告をやるように、とお達しが出ていた矢先のことであったので、本部員はそう言ったのだった。
このお方は一人の人間の死より、会社の業務の方が大切なのだった。こういう会社人間にはなりたくないと思った。オヤジの死と全然関係ないところでオレは非常に複雑な心境になったのだった。
オヤジの死はオレにとってとりたてて悲しむべきことではなかった。オヤジはアル中だった。物心が付いたときから、オヤジとはまともに会話をした記憶がない。オヤジのアル中は進行し、オレが学生の時に精神病院に入院することになった。初診の時にはオレも立ち会ったのだが、アルコールが切れて親父の手は小刻みに震えていた。相当アル中が進行していたのだった。仕事もそこで辞めることになる。就職も決まっていなかったオレは漠然と大学院に進みたかったが、断念した。オヤジがきっかけとなったわけだが、このことのみに関してはオヤジに感謝している。大学院に行かなくて良かったと今は思っているのだ。妙なアカデミズム・コンプレクスに陥っていた当時のオレを偶然オヤジが引き留めてくれたと言っても過言ではない。
アル中をなんとか克服し、全くアルコールを摂取しなくなった彼は、再就職に付く。オレも何とか就職する。各々の人生を歩みだしたと同時にようやくオヤジとまともな会話が出来るようになった。といってもオレの場合はオヤジともオフクロともあまり喋らない。特に無口なオヤジとは一言二言で事足りたので、深い会話など、ない。それでも今でも思い出すのは、オヤジが死ぬ何年か前にたまたま二人きりで町中を歩く機会がありオヤジが「ラーメンでも喰ってから帰るか?」とオレを誘った。そんなことをオヤジに言われたのは(多分)生まれて初めてのことであった。ちょっとびっくりしたオレはしかし「いいよ、まっすぐ家に帰ろうぜ。」と返事をした。今思えば、あれが最後のオヤジの、オレに対する、ある種の気遣いだったのだろうか。オレにとってはオヤジは最後まで分からない人間であった。
だから、世間の、仲のいいオヤジと息子、という図を見ると、オレはどうにも合点が行かない。オレにとってオヤジは反面教師以外の何ものでもなかった。常にオヤジに反抗していたのだった。オヤジのようには絶対になるまいと思っていたのだった。
墓参りの時にそんなことを思い出した。故人には各々の思い入れがあり、記憶はどんどん更新されてゆくが、オヤジのことに関しては、病床にふせっている死にかけのオヤジの顔を見て「この男の息子がオレか。」と思ったことだけは更新されず、明確に覚えているのだ。そして上記のストーリーも。時間的な前後が記憶の更新によって不正確かも知れないが、たまには記憶を文章に留めておくのも悪くないだろう。