死について。

比較的忙しかった二日間が終わった。「比較的忙しかった」っつってもねぇ、世間のお忙しい人に比べりゃ忙しいの「い」の字も言っちゃいけない気もするんだけどね、オレが。
何がどう忙しかったのかをここで発表してもいいのだが、そんなこと書いても意味がないので書かないことにする。そういうことを書くのも全然意味ないけど。
本日は「死ぬこと」について考えました。
誰もが「死」を自分のものとして受け入れていない。私だってそうだ。自分だけは死なないとすら思っている。でも必ず死ぬ。これは数少ない真理だ。どんなエラい人でもどんなどーしょーもない人でも、必ず死は訪れる。死ぬと全身の筋肉が機能しなくなり、もちろん肛門の括約筋とかも緩むので、どんなカッコイイ人もどんな美人さんも、どんな貧乏人も大小便を垂れ流す。放っとくと異臭を放ち最悪だ。
でも死とはそういうものだ。それが死の現実だ。
世間は「死」をひたすら隠蔽しようとする。上記の汚い部分を病院や葬儀屋で処理するのはもちろんのこと、ニュースやドラマでは死がまるで非現実的な出来事のように語られる。ニュースは死を「よそごと」として扱う。○△県のどこどこで誰々が死体となって発見されました、と。それはあなたにも私にも全く関係ないことなんですよ、とでも言いたげに。
でも違う。確実に違う。
死はいつ訪れるか分からないし、きょうびの健康ブームを見てるとまるで健康に気を遣っていたら死なないような宣伝すらしている。昔誰かのギャグで「健康のためなら死ねる」というのがあったが、そんなシニカルな言い方がギャグになるくらい健康は死とかけ離れたイメージを醸成している。
でも違う。確実に違う。
私は遺伝的な経緯から言うと癌で死ぬだろうと思っている。どこの癌かは分からないが、まぁ咽喉癌でも肺癌(この確率高いかも)でも膵臓癌でも、どこぞの器官に癌細胞は巣くっているはずだ。ちなみに私の父は膵臓癌だった。あれを見てると膵臓癌だけはヤだな、と思った。凄まじい痛みらしい。最後は痛み止めのモルヒネでわけがわからなくなってたけど。それでも癌になる前に交通事故で死ぬかも知れないしインフルエンザをこじらせて死に至るかも知れない。それは分からないのだ。どんな死に方をするか分からないけど死ぬことだけは確実だ。近い将来か遠い将来かは分からないけど死ぬことだけは確実だ。
大量殺戮が悲惨なのは残された人間がいるからだ。一人残らず死ぬ兵器があれば一切が無になり何の悲しみもなくなる。これが理想的な死だ。いま全世界には全世界の人口を死に至らしめるだけの核兵器が存在している。核戦争が起きるなら徹底的に全人類を殺して欲しいと思う。一人残らず。
他人の死を経験するのはこの上なく辛い。だが自分の死を経験するのは自分しかいない。それは辛いことだろうか。私は私の死によって他人が辛い思いをすることが辛い。思い上がりかも知れないけど。だから死ぬときは人類全滅が望ましい。
ひとは死を恐れる。その恐れは無になることの恐れではなく感情的な恐れである。上記のような。
でも本当は無になることが怖ろしいとは、誰もが言えないでいる。無になるのが怖ろしいから宗教が生まれる。ないものを「ある」と主張する。それによって救われるのは死を意識から遠ざけたからなのであって、本来は死と隣り合わせに我々が「ある」ことを、死を死ぬこと(キルケゴール)によって「なく」さなければならないのだ。本当は。徹底的に。「メメント・モリ」は実に深い言葉だ。