ベトナム終戦30年。

5月も折り返しに来ております。なんだか月日が経つのが早い、と感じるのは歳のせいだろうか。とにかく早く感じる。
本当は昨日で原稿を終わらせるはずだったが、日記を書いた後かなり(オレにしては)頑張り、結局朝に眠りに就いた。もうちょっとだ。今日もだいぶ進み、あとは推敲を残すのみだ。明日には完成希望。あくまで、希望。
ベトナム終戦30周年ということで昼間TVで特集番組をやっていたので見た。しかしどうしてメディアはそういうキレのいい時にしかそういう企画を出してこないのだろう。まぁ視聴率をプレゼンして広告を取るための制作だからしょーがないのかもしれないが企画があまりに安易すぎやしないか? まぁオレがどうこいったところでどうにもならないけど。
劣化ウラン弾被爆した米国兵が12%しか国家から因果関係を立証されていないとか、食物連鎖で次世代に延々と奇形症状は続くとか、イラクの帰還兵が軍医の検査と民間の検査とでは被爆症状に関する結果が違ったとか、そういった仔細のことがまるで「学校のお勉強」のように語られる。リアリティは全くない。まるで他人事のように語られる。ショッキングな効果音とテロップと一緒に。
そして映像はオキマリの被爆症奇形児の映像。もうあほかっつーのを通り越してあきれるよ、その陳腐さには。映像のなんたるかを全く考えていないのだろう。それだったら一枚の写真のほうがよほど強烈なメッセージがある。まあTV番組というのも制作予算と広告料と視聴率で効率よく作られるのが常なのだろう。悲しいが。残念ながらその大仰にベトナム終戦30周年と名付けられた番組にはオレには何のメッセージも発してくれなかった。本当に残念だけど。
思うに多分「視点」の問題ではなく「映像」の問題だ。下手に編集した映像ほど腹立たしいものはない。わざわざストーリー仕立てにしないで、淡々と映像を流してほしいのだ、オレとしては。あとはこっちで考えるっつーの。TVに「考えろ」と言われたくないのだ。
それにしても映像は難しいとつくづく感じた。「淡々と」といってもフィルム自体に始点があって終点があるわけだし、それを撮る側・編集する側にも必ず始点と終点がある。その現場をリアルに伝えるのはコトバでもなく写真でもなく映像でもなく。
使い古されたコトバ(70年代的なコトバ)だが、想像力だ。