たまには音楽についてでも。

パソコンの調子が悪いとどうも凹む。それってパソコンがなきゃダメってことじゃん。パソコンに支配されまくってるってことじゃん。イヤだなぁ。そもそも新しいプリンタ・ドライバをインストールするところから始まって、そこからおかしくなってしまったのだった。再インストールしてみたりなんかまともに終了しなかったり再起動しなかったりシステムいじってるときにフリーズしたりと散々だった。いろいろいじったけど結局プリンタは機能せず、今日のところはあきらめた。明日もう一回挑戦する。
そんなこんなで今日は1日パソコンの前に居たのであって、いわゆる引きこもり状態にあったわけだが、こういう生活は良くないよ。精神的にも。肉体的にも。

そういうわけで日記には音楽の話でも書こう。たまには音楽の話も良いでしょう。
音楽とは即ち思いこみだ。音楽を聴く感覚は非常に不純で、そこに純粋で自由な感覚というのはあり得ない。何らかの情報・思いこみ・論理などが入り込んだ感覚だ。その感覚に音を聴く「自由」などない。情報なり思いこみなり論理なりに引っ張られて感覚が形成されている。そんなことは過去に誰かが言っているだろうからそういった哲学者の名前を挙げてその文章を援用すれば説得力も出てくるのだが、なんか思い出せないし、っつーか忘れた。
だがこの感覚の「不自由さ」がなければ逆に音楽は実につまらないものになるだろう。たとえばラ・モンテ・ヤングの純正律の音を聴いたときのハッとするあの感覚。この感覚は、感覚が「不自由」であるからこそハッとできるわけであって、もし感覚が自由なら音楽は全てフラット(平面的)な音の連なりと感じられるはずなのである。この感覚の「不自由さ」は地域的・文化的な拘束によるところも大きいが、それを楽しめるか楽しめないかはあくまで個人の不自由な感覚に依っているところが大である。個人の不自由な感覚はその個人自身が作り上げる。その個人の属するコミュニティであったり環境であったり時間の拘束であったりというリアルな条件が感覚を決定させている。
だから同じ音楽を同時に10人が聴くとすれば10人各々の不自由さでもってその音楽の価値が決定される。ゆえに「名盤」とか「名演奏」とかいう言い方は、たしかに最大公約数でくくられる意味においてそれは正しいのかも知れないが、本来あり得ないパラドキシカルな(というか資本主義がデッチ上げた)言葉である。だからラ・モンテ・ヤングの純正律の音楽を、クソだと言ったとしても、それは言った人の不自由な感覚でそれがクソならばそれは正しい。私はクソだとは思わない。それだけのことである。しかしそこでは必ず論争が起こるのが音楽業界の常だ。意味のない論争。この論争は批評ではあり得ない。なぜなら音楽に対する批評ではなく、他人の感覚に対する批評だからである。私は他人の感覚に対する批評に興味はない。音楽に対する批評に興味があるのだ。そしてその批評はあくまで自分の音楽に対する感覚を論理化したものでなければならない。そういう批評はここのところ全くお目にかからない。昔は植草甚一さんとか殿山泰司さんとか清水俊彦さんとか、個人の感性を見事に論理昇華した批評が確実にあった。彼らは自らの「不自由さ」を晒した。それは音楽に対する思い入れ、思いこみという不自由さであった。
自分の不自由さを徹底的に検証した上で音楽を聴くと実に音楽の豊かさが見えてくる。それを分からない音楽小児病患者に私は興味はない。