意味不明のエイプリル・フール。

『二〇世紀精神病理学史 』(渡辺哲夫著・ちくま学芸文庫)を読んでいる。渡辺哲夫氏は以前『知覚の呪縛』という本を読んだことがあって、これが実に興味深かったのでなんとなく購入してしまったのだが、読み始めるとやはりどっぷりとハマってしまう。歴史不在の病理解明やナチズム、フロイトハイデッガーとナチズムの「精神病理的な」思想援用などなど、まだ読んでいる最中なのだが読み進むのがもったいないくらい興味深い。惹かれるのは実際の分裂症患者のパロールだ。『知覚の呪縛』はほとんど分裂症患者のパロールで埋め尽くされ、混乱を禁じえずながらそれを「物語」にして深く患者の精神の深層に入り込む著者の分析記だったが、『二〇世紀〜』は史学との関わりにおいて患者のパロールを位置づけているのが興味深い。
なにが狂気でなにが正常なのか。ヒトラーとナチズムは狂気であった、と必ず過去形で語られる人類の愚かさ。精神病理学に対するアンビヴァレントな著者の心の揺れは、読者をもその揺れに巻き込む。私は心理学やら精神病理学やら脳生理学に対して昔から疑問を持っているし今でもそれはある。のだが、それにもかかわらずこの書物が興味深いのはひとえに著者の臨床の豊富さと自ら悩み揺れ動く著者の人となりというか、人間性というか、が汲み取れるからなのだ。
学術論文はほとんどの場合非常〜につまらないのが多い。なぜなら学術論文の書き方のデフォルトが「私は」ではなく「われわれは」だからだ。まぁそれによって学問は発展していくことは事実なのだが、ハッキリ言って私のような一般読者はつまらない。でも渡辺氏の著作は全然学術論文ぽくなく、そのアティテュードにおいて共感できる部分がとても多い。
人間っつーのは全く意味不明であり続ける。ロジックやエクリチュールなど何の役にも立たない。その何の役にも立たないことにこだわるのもまた意味不明な人間の性なのだ。