カエルの件。

ちょっと長くなると思います。興味ある人だけ読んでください。
そもそもヒキガエルなるものに初めて遭遇したのは1981年の梅雨時であった。同年に東京に出て来て希望と絶望を同時に抱え鬱屈としつつもバカな毎日を送ってた頃板橋区にて。夜、小雨の中を歩いていると前方に石があるなと思った。そのままずんずんと小雨の夜道を歩いて行き、その「石」がオレの足元でデロレンと動いた時の私の驚きたるや、北海道以外に住まわれている人々にはご理解できますまい。北海道旭川市に住んでいた私のガキの頃のカエルというのは大きくてもせいぜい5cm〜6cmくらい。しかも緑色のいわゆるアマガエルというヤツ。ぴょ〜んと跳ねる。その跳躍力は小さいくせにすげーなこいつと思わせるに足るものだ。それなども含めて私の中ではカエルというヤツはなかなかかわいいヤツだという、1981年そいつに合う寸前までの認識であった。ヒキガエルのその態度というか動きというかルックスというか、そういった彼らの、視覚の全体像は私にとってなにか禍々しいものであったのだ。そもそも大きすぎるのだ。彼らのサイズが私にとっては非常に不自然なことであったのだ。
ところが毎年のように夜道で遭遇する彼らにもなんだか慣れてきて、ここ5年くらいはかえっていとおしく思えてきてしまっている。ずいぶんな感覚の変化だ。そのなんとなくりりしい顔つき、健気な態度、凛とした佇まいに、なにか彼らにエールを送りたくなってくる。ただし触ることはできないけど。適度な距離を置いて、彼らを見守ってあげたい。


さてここ5年のそういった私の心境の変化によってふとした疑問がわいてくる。都市に住むカエルはどこで産卵しているのかということと、よしんばどこかの水辺で産卵したとしてもそこからかなりの距離のコンクリートの上をなぜ彼らは移動するのかということだ。私の住んでいる家の周りに水辺というものが全くない。最も近いところは須藤公園という池付きの公園で約600m、根津神社で約700m、といったところだ。その距離を彼らは歩いているのか。そして産卵のためにまたその距離を歩くのか。何のために? その疑問がピークに達したのは去年だ。カエルの生態をめぐって配偶者と論争になったりした。世界一くだらない夫婦喧嘩ともいえる。いずれにせよ全く解決せぬまま、まぁ仕事やら何やらで冬の間は気にせずにいたのだけれど、なんと一昨日の夜、家の玄関の前に、彼は突然姿を現したのだった。いきなり、である。キッと正面を向き寒い中健気にもどこかに向かおうとしている風だ。私が住んでいるマンションにはちょっとした植え込みがあって、ほんの少しの土の部分に冬眠していたのだろうか。いや植え込みは高さ30cm以上はあるのでここはいくら彼でも登れないだろう。じゃあ彼はどこから? 疑問が再燃したとき配偶者が「産卵だ」と言った。「いま多分須藤公園で産卵してるんだ。見に行こ。」と言う。夜中ではあったが二人で須藤公園の池まで行った。しかしそれといった風景も見られず、そこいらにはカエルの一匹も見当たらず、すごすごと二人で引き上げてきたのだが、さっき玄関先に居た彼が道路に出て車に轢かれて死んでいた。なんとも言えない気分だった。彼と遭遇しなけりゃ何も知らずにやり過ごせたのに。二人でずーんと落ち込んだ。以前、埼玉のど田舎の友人の家に遊びに行った時、田んぼ横の道路に車に轢かれた無数のカエルの死体が累々と存在している光景を見たことがある。これも20年以上前の話。まだヒキガエルどもに禍々しさを感じていた頃である。その時は何とも思わなかったけれど、今回のは彼(オス。痩せ型で小さめ)に「思い」を入れ込んだが故に、悲しさもひとしおだ。


閑話休題ヒキガエルは「二度寝」するらしい。最初に起きるのがちょうど今頃。2月末〜3月頭。何のために起きるかというと、産卵のためだ。個体数の少ないメスの争奪戦は、古くは「蛙戦(かわずいくさ)」、現在はいわゆる「カエル合戦」と言われている。皆遠くの方からメスを探しに水辺まではるばるやってくる。そして一匹のメスをめぐって多い時で20匹くらいのオスが争奪戦を繰り広げる。もうくんずほぐれつの大乱交(20Pくらい)、半ば祝祭のような状態で、最終的に彼女をゲットできたオスは彼女の背中に乗り彼女を後ろから抱きかかえておなかを押したりして産卵の手伝いをするそうだ。彼女のお尻からはプリプリプリプリプリとお蕎麦みたいな長い卵が産み落とされる。水の流れに流されないようにちゃんと草に巻き付けて産んだりする。産卵が終わるとメスも、オスも、みんなでまた水辺から離れて土のあるところで再度冬眠に入る。いわゆる「二度寝」だ。産み落とされた卵は水分を吸ってゼリー状になって、核が出来て分裂してオタマジャクシになって手足が生えてしっぽが消えて立派な成人になる。以上、ネットで狂ったように調べた要約。受け売りです。「カエル合戦」で検索すると各人のレポートのサイトが写真付きで出てきますので興味のある人は検索してみてください。しかしこれでは長距離移動は解決されないままだ。


とにかくその夜そういったことをネットで見まくって、気になってしょうがなくなり翌日また配偶者と二人で須藤公園に様子を見に行った。今度は昼。水面をつぶさに観察していると、あった! カエルの卵だ(画像)。ということは昨日われわれが帰った後、もしくはその前に「カエル合戦」が華々しく行なわれていたのだ。昨晩命が失われた一匹のカエル。そして新たな生命の誕生。なんだか、涙が出てくるような複雑な心境になった。この卵の中の複数の生命で生き残れるのは何割なのか。そして成人してひと冬を越せるのはまたその中の何割なのか。とりわけ都市ではサヴァイヴするのは本当に大変なことだ。猫にいじめられ、カラスに喰われ、車に轢かれる。常に危険と紙一重だ。だから夜道でカエルを見かけると「コングラチュレイション!」と叫びたくすらなってくる。
ここ5年、夜の散歩、とりわけ夏場の夜の散歩は必ず注意深く道端を見ている。けっこうなカエルたちと遭遇できる。道のど真ん中に居るヤツはすぐにわかるけど、道の端々に居るヤツは注意して見なければ誰にも気付かれない。彼らは夜行性だ。夜ほんの少しの明かりに寄ってくる小さな虫を食べたり土のある場所ではミミズを食べたりしてしのいでいる。都市のカエルはそれすらも厳しい状況だ。土が豊富にある田舎のカエルと、都市のカエルではその本能も変化するのではないか。とにかく都市のヤツらはその厳しい状況を生き抜いている。そう考えると600〜700mくらいの移動は彼らの宿命と考え、あわよくば1km、2kmの移動も厭わなくなるのではないかとも考えられる。食い物を求めてコンクリート上を移動するのか、それとも何かの本能的な触覚で移動するのか、未だに疑問は解けないままだ。しかもコンクリートに囲まれた都市に居てすらも水辺に戻るという本能も考えてみると実に天晴な生命の神秘だ。


啓蟄」ということばは3月5日くらいのことで、地中に居る虫たちが地上に出てくる日のことだ。まだ3月5日には早いけど、ホントに毎年彼らはその頃に地上に出てくるのだなあと、本能の不思議に感激したり、それを暦にした中国人の知恵に感激したりと、うちの玄関の前で轢かれて死んだ名もなき彼に、いろいろと教えてもらったような気になりました。もう、春なんですね。