パラボリカ・ビスの夕刻〜夜。

昨夜は大友良英『ENSEMBLES'09 』の"EXTRA"としてのインスタレ−ション、「Sachiko M/ I'm here.. departures..」「filament/4 speakers」の会場となっている浅草橋・パラボリカ・ビスでのクロージング・ライブを観に行った。
出演は飴屋法水 + コロスケ + くるみ、伊東篤宏、大友良英Sachiko M、ユタカワサキインスタレーションが開催されている二つの会場(1F、2F) + カフェスペースという3つの会場で、各々の奏者が各々の楽器を演奏し、観客は各々好きな場所に行って演奏を聴けるというきわめて自由度の高いライブ。フジロックでいうとレッドマーキーとグリーンステージとホワイトステージを往来しながら各々の音楽を楽しむ極小版といった感じ。と書けば分りやすいですかね(フジロック、行ったことがないので想像で書いております)。その方法はとても風通しが良く、好きな気分で好きな音に接することができる観客の自由を十分に保証してくれる。
観客は皆最初から大友の演奏に集中し、演奏が行われていたカフェスペースにはもはや入り込むことができない。私はあまり人が大勢いるところを好まないので1Fの伊東篤弘のオプトロン自動演奏マシーン(?)をずっと眺めていたり、2FのSachiko Mとユタのデュオを聴くのに集中した。時々飴屋法水が、バケツを持って現われ線香花火をバケツに落として音を出したりコインを天井に投げつけて音を出したりというパフォーマンスを行うが、それを自動オプトロンとインスタレーションの音とつなぎ合わせて聴いてしまうという脳内インプロを楽しみ、また時折きまぐれに現われるくるみちゃん(飴屋さんのお子さん)には観客全員の目が釘付けになる。あまりにも可愛くて。
会場を自由に動き回れるのは大友、飴屋、コロスケ、くるみ、の四人。Sachiko Mとユタは人の手を借りなければ移動が出来ない音の装置ゆえ、エアコンの効いていない2Fで演奏を行わざるを得ず、しかし時々音を出しっぱなしにして奏者は不在となる。この「奏者の不在」は逆に強烈にその奏者の音を浮かび上がらせる絶好のモメントとして機能する。
一時間半経過した辺りか、大友がエレキギター・セット一式(ギター、アンプ、エフェクター)を1Fに持ち込んだ辺りから観客は皆1Fに集合し始める。今まで1Fで飴屋さんのミニギターでキコキコする音を彼の真後ろで楽しんでいたオレはとっとと2Fへ移動。大友の音が聴きたくないわけじゃないんです。人がわさわさ集まってくるのがイヤなんです。2Fではユタが凄まじい強度の音を出し始めた。皆1Fに行ったので、ここの観客はオレを含めて2〜3人。下から大友の、これまた強烈なフィードバック音が響いてくる。ユタ、負けるな、頑張れ! とついつい高校野球で負けているチームを応援するような心持ちになってしまった。


観客の自由を保証するとても素晴らしい企画だったのだが、自由じゃなかったのは観客だった。演奏者は実に自由だった。全ての音楽的なクリシェから解放されていた。しかしやはり「大友良英」の名前に惹かれるのか、大友が動くごとにその後ろをついて回る集団心理的・催眠的・平均欲求的な観客は、この企画の一切の自由を自ら放棄しているかのように映る。
こんなこと書いても別にどうなるわけでもないけれど、若い頃に持ったぶつけようのないようなイライラ感が急激に襲ってきたのだった。
人気とは何なのだろう。演奏者と観客の関係って何なのだろう。音を聴く自由って何なのだろう。