言葉の重み。

やることがたくさんあり過ぎて困っているのである。いわゆる忙しいということだ。そして忙しいときに限って、さまざまなことが起こる。プリンタ故障(新品購入済)。原稿料未支払い問題(解決済)。高校野球開幕(忙しいときに開幕しないでほしい。ついつい観てしまうので)。
山上たつひこの『光る風』完全版とコミックス未収録作品集『一軒家』『神代の国にて』『人間共の神話』、一挙購入、読了。この時代('68〜'72くらい)の山上たつひこは最高だ。『光る風』に代表されるような沈み込む作風の短編佳作がこの時代に日の目を見るのはとても有意義なことではないか。なんか時代はまたバブリーな空気感を持ってきているようだが、惑わされてはいけない。人間の闇の部分をまだまだ表沙汰にする必要がある。
ところで全く関係ないけどYouTubeには三島由紀夫関連の動画がけっこう上がってて、ついつい見てしまった。東大全共闘との討論とか、自身が監督主演をした『憂国』の切腹シーンとか、市ヶ谷での最後の演説および遺体(介錯によって切断された首)とか。そしてそれらの三島の貴重な動画を見た後に沸々とこみ上げてくる私の感情は何と説明すればいいのだろうか。壮絶な死に対する憧れ?それとも死への恐怖?三島的な生き様に対するコンプレックス?思想と実践(古い!)の同一性の体現に対して? どれも当たっているようでどれも違うような気がする。この沸々とこみ上げてくる感情のネーミングができないのである。ハイデガーは「不安」と言うだろう。でもそれにも当たらないような気もするのだ。
でも最も近いのはコンプレックスかな。凄まじい生き様/死に様を見せつけられて、オレはどうなんだ、と。何かというと言い訳して、言葉で塗り固めて、自己正当化して、それでいいのか、と。言葉でペラペラしゃべったり書いたりして、なにひとつ自分で満足できるようなことをやり遂げていないではないか、と。落ち込むのだ。そしてその場合でも「落ち込む」とか言葉で書いちゃって、虚しく自己主張したりするのだ。
三島は徹頭徹尾、言葉を使用して生きてきたけれど、その言葉に絡めとられたのではないか。全面的に言葉を信用していたが故に、自分に嘘をつけなかったのではないか。葉隠の精神と憂国の魂を言葉で表した責任をとったのではないか。
われわれは言葉を用いて生きているし、言葉がなければ生きられないけれど、自分が発した言葉にどれだけの責任を持っている/持つことが出来るのだろうか。そして自らの生死をかけるほど言葉を信頼しているのだろうか。三島の死を思うとき、言葉の重み、みたいなものがだんだんなくなっていっているような気がしてならないのだ。世間が、とも言えるし、それは確実にオレ自身にもはね返ってきている。