勘。

「なんとか力」とかいう本を何冊も出している斎藤孝というひとがいるじゃないですか。あいつはかなりの確率で胡散臭いと思っている。一冊たりとも読んだことないですけどね。わはは。似た名前で斎藤貴男さんでいるじゃないですか。彼の本はどれもとても面白い。
そもそも私が天の邪鬼でひねくれた性格で、他人に「頑張れ」と言われると絶対に頑張るもんかと思うし、企業的なファナティシズムには絶対に与したくないと思っているのである。「ひねくれた性格」というのも、良い意味にしてしまえばいいわけで、例えば、元フリクション、現、なんだ?ロッソ?もう解散したんだっけ?のイマイくんなんかは一目会った時からこの人は正しく屈折しているな、と思った。イマイくんとも久しく会ってないけど、このひとの「正しい屈折のしかた」に私は比較的感激したのである。理由は、ない。ひとと会った時のインスピレーションとかヴァイブレーションみないなもので、話してみて確信に近づいた、それでオレの感覚は正しかったのだな、と納得するのである。このオレの感覚はまぁ70%くらい当たってて、外れた時は修正をかければいいだけの話である。修正をかけるほど会わない人は、オレの第一印象のままである。ラッキ−なことに、もしくはかわいそうに。
そうであるから斎藤孝が胡散臭いというのも70%の確率で当たっている、もしくは30%の確率で外れているのである。まぁ本は全く読む気なんかないけど。
音楽の場合、昔は「ジャケ買い」があった。もしくはそのグループ名とかタイトルが自分の感覚にヒットするものを闇雲に。
私の場合、ロック聴きかじり中坊の頃の、ツェッペリンの『聖なる館』は前者の、パープルの『マシン・ヘッド』が後者の、代表格だ。『聖なる館』のヒプノシスによる(だよね?たしか。違ったっけ?)岩山を上ってく全裸の少女たち。意味不明だけど中坊のオレはものすごくイマジネーションをかき立てられ、音を聴いて興奮した。後日ツェッペリンは『IV』が最高傑作なのだと渋谷陽一かなんかが言ってて聴いてみたものの、オレの中では『聖なる館』がやっぱり良かったのである。『マシン・ヘッド』は「マシン・ヘッド」というめちゃくちゃカッコいい語呂が、良かったのだ。最初のパープルは実は『嵐の死者』なのだったが間髪をおかずに、パープル、何か買わなきゃということで決めたのが『マシン・ヘッド』だったというわけ。『紫の炎』も『イン・ロック』も差し置いて、語呂の良さで『マシン・ヘッド』。
外れた、と思ったのがフリップ&イーノの『ノー・プシーフッティング』。これは高校の時だったかな? そもそも既にクリムゾン『USA』のイントロで知っていたので、レコ屋で見て、鏡の部屋に二人が座ってるその感じが未来的な感じがあって必ずやこれはいいアルバムに違いないと確信し、しかも両面各1曲ずつというプログレ好きの琴線に触れる形で、この後、どんな劇的な展開があるのだろうとワクワクして聴いていたらずっと同じで、なけなしの金を払って買ったのにこれじゃ詐欺じゃねーかと真剣に思った。
何の話だっけ? ああ、第一印象の話だ。かように私の第一印象というのは本と出会う時、音楽と出会う時、人と出会う時、けっこうなアンテナを張っているのである。
情報過多の時代、すべて情報頼りでこういうアンテナが張れない人が往々にしていらっしゃるようである。とくに人と人が出会うときは動物的な勘はとても大切なのである。よく他人に騙される人は勘を鍛えた方がいいのである。詐欺に逢った被害者が臆面もなくTVに出たりしているけど、あれは自分の勘の鈍さを世間に晒しているようなもんだと思う。