GRID605 プレ・イベント。

大友良英が新たに立ち上げたスペースGRID605のプレ・イベントに行く。
イベント内容は『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』を著した平井玄、批評家・北里義之、音楽家大友良英の鼎談、宇波拓大友良英の各々のソロライブ、岩井主悦の映像、といったものをまったりと、ゆるーく、休憩をはさみつつ、雑談しつつ、といった感じで。本日が最初のイベントだったので、まだ全く未知数で問題点も数多くあると思うが、あの広さであの感じは、とても快適な空間なのではないかと思える。あくまで個人的な感想だし、狭いとか長過ぎだとか色々文句を言おうと思えば言えないことはない。実際ちょっと遅く入場した私は一番前に座り、歳のせいかかなり腰が痛くなった。それでもひとたびこの東京であのような「場」を創出することは限りなく不可能に近いのではないか。それを実現した大友にまずは素直に労をねぎらいたいし、新たなことがそこから生まれれば何よりの収穫と思える。しかも本日の鼎談者3名の発言には触発されることが少なくなかったし、何より企業からドロップアウトして一人でレーベルを運営して生業を立てている私の現実として、平井玄のこの著書は大いに共感できるものであったのだった。
「開かれている情報と開かれていない情報」「その場限りのアンサンブル(組織)」といった玄さんの発言、「自分の出来ることの範囲を設定する」ことをカーラ・ブレイを例に持ち出してきわめて分かりやすく説明した北里さんの発言、PAシステムを象徴として音楽、ひいては社会構造の説明をした大友っちの発言など、身につまされる思いもしばしば。
いわゆる固定化した組織体、それをある意味で「企業」と言ったり「セクト」と言ったりするが、今やその掟とは思考停止状態である。自分の目指すところと営利目的(もしくは組織体の目指すところ)の狭間でわれわれは引き裂かれた存在である。いみじくも宇波くんが発言した「いやいやながらCDのジャケットを作ってますよ。」が象徴するリアリズムから話を始めなければ、そして引き裂かれた存在であることを認識しなければ何を言っても机上の空論になること必至である。そういった意味で本日の鼎談は実にリアルだったし、私は自分の生活基盤に置き換えて考えることができてとても有意義だった。(本日来られなかった方々には何を言っているかさっぱり分からないでしょうけど、『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』を読めば半分くらいは分かっていただけるかと。)
こういう「場」は重要である。今後GRID605がどのような場になっていくのかまだまだわからないが、まぁ「新たなものを作り上げていく」なんて大上段に構えなくても、結果として何かが出てくればそれはそれでOK、みたいなゆるい感じでやっていけばいいのではないでしょうか。なんてエラそうに言ってみたりするが、協力は惜しむまい。企画もチラホラ出そうと思う。