信じることと疑うこと

『教祖タカハシ』(ジョージ秋山)を読んでいて気になったことがあった。教祖タカハシの次のようなセリフがある。「疑うことから始まるのが医学です。神秘の世界は信じる事から始まります。」この言葉が異常に気になった。
私は世の中の全てを疑っている。信じることなどなにもない。
などと断言できればかっこいいのだが、実はそうでもない。すぐにコロコロと変わる。ただ疑うアティテュードだけは一生持ち続けるぞ、というのは、ある。この先「信じること」もあるかも知れない。でも信じる対象が何であれ、そこに「疑うこと」が許容される対象を信じるだろう。ナチスとか北朝鮮とか旧ソ連とか第二次世界大戦前夜のわが国とか...は「疑うこと」が許容されていなかった。全員に「疑うこと」がなくなること。権力者にとってこれほど理想的なことはない。少なくとも私が権力者だったらそう思う。みんな疑いなしに私の言うとおりに動いてくれる。素晴らしいことではないか。でも実際にそんなことは絶対にあり得ないのだ。人間は疑うものなのだ。それを押し殺して、妥協して、疑いがないことにしているのだ。それはとても不健全である。「疑いがあります」と言うべきである。そして「疑いのない」人と徹底的に話し合うべきである。疑うことのない人ばかりの集団は居心地が悪いのである、私としては。そしてそれはとても危険であるとも思うし。そう考えると doubtmusic って自分で言うのもなんだけど、いいネーミングだな、と思う。
でも実際は購入した人が「なんだよこの音楽。全然つまんねーよ、わかんねーよ。」とかクレームを入れてきたときに「doubtmusicですから。」と言い訳できるからだ。小心者のゲス野郎なのだ、実際のオレは。