モノを作る。

二つのリリースを二ヶ月連続というのはやはりキツい。金銭的にもキツいし、労働的にもキツい。というわけで一方ではナンバジャズの、こちらは主にどういう風にして売るかといういわゆるプロモ関連、もう一方では今井和雄トリオの、こちらは純粋に制作仕事。並行してやっているとどっちがどうだか混乱してくる。以前やってたDIWの制作の時を思い出し、ちょっとあまりいい気分にはならない。どこかビジネスライクになっていって、何かを失ってゆくようで怖いのだ。
モノ(私の場合はCDという、音楽を実体化させたモノ)を制作することは、その中にぼんやりした何かを込めるのだが、実用品と違ってこういった音楽などはそのぼんやりとした何かによってそのモノの価値が決定的になる。しかもそのぼんやりとした何かは、受け手によって様々なズレを生じさせながら、様々な解釈がなされる。しかもある一定の枠からは外れないような解釈がなされる。
どういうことなのだろう。その解釈によってモノの価値が決まるということは。価値、価値、というけれど、経済的な意味においてではなく、音楽的な意味において、もしくは批評的な意味においての価値とは一体何なのか。
よく音楽雑誌などで10点満点中8点とか3点とか批評の基準値みたいのがある。あれはエンターテインメントとしては面白いけれど、何のためにやっているのかが皆目わからない。それによってCDの価格が決まる、とかハッキリとした経済状況に流用することができれば話は別だけど、批評を数値に置き換えることに何の意味があるのかと。しかも10点中10点が付いた作品がまた売れてしまうところが怖い。
批評家を金で買えれば良いわけだ。あんたに30万渡すから10点満点付けてくれと。10点満点付けば30万リクープするのなんか簡単なことだろう。ま、似たような事例で一部の音楽雑誌は動いている。
大手ジャ○雑誌であるところの○イング○ャー○ルという雑誌の毎月のゴー○ドディ○クなんていう賞は、金で買う仕組みになっている。つまり広告の出稿によって決定する仕組みだ。半年先くらいまでどこのメーカーが受賞するかも決まっている。で、まぁあまりにも同じメーカーが受賞したりするのもナニなので、受賞順番を振り分けて、空いてる月度にわりとマイナーなメーカーが受賞できたりするのだ。これによって制作サイドと編集サイドがその年度の経営戦術を立てられるという大きなメリットがあるのだ。しかもゴー○ドディ○クの評文は少しでもその作品をけなすことがあってはならず、編集部で上手い具合に校正を入れられる。逆に言えば少しでも広告出稿すると必ずレビューを掲載してくれる。経済的にはとてもメリットがあるのだ。つまりカネと引き換えなわけ。編集部から情報収集するということは滅多にない。メーカーからのサンプル盤が情報のほとんどだ。唯一輸入盤のページだけは評者の情報収集と批評眼の賜物である。つまりほとんどが茶番なのです。少なくとも私がユニオンに在籍してた2004年まではそうだった。今はどうか知りませんし、知ろうとも思いません。
そういう内部事情を知ってるとついつい天の邪鬼なオレはぜ〜ったいにそんな「大人な」事情に足を踏み込むまいと思うわけです(DIW時代は思いっきり足を踏み込んでましたが・笑)。
そういった初心を忘れずにいたいものであるが、仕事が重なって現状のようになると、ついついビジネスライクになってしまって、「大人な」感じになってしまって、反省したりするのだ。別に誰かに怒られるわけでもないのに頑張ってしまう「大人な」おのれにちょっと落ち込んでしまったりするいたいけな48歳なのであった。